みかずきのいえ

 
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映画 ファーザー観ました(後半ネタバレ)

おはようございます、みかずきです。
映画ファーザーを見ました!Amazonプライムも有料でささたが、unextのポイントが余っていますのでこれで見てきましたよん。

レビューなどをみると、感動した!とかヒューマンドラマ!とか、アンソニーの演技はすごいとか快演とかいろいろ書いてありますが、

そうじゃなくない?
ちゃんと見た?

これ、精神的ホラーですよ!

と思ったかな。
感動するどころか答えがありません。たぶんまじめにロジカルに道筋を見つけながら見ようとする人ほど歪で説明のつかない罠にかかるし、これは最後までその謎は残したまま終わります。

最後は感動というよりも、
ああーー…と。そうなるよね…となります。
どんなに強い人でも、どんなに賢くても、そうなっちゃうと思う。
そういうせつなさはあった映画かな。
でもそんなことよりなんだろう、終始戦慄を覚える映画ですね。視聴直後に私がツイートに書いたのはこちらです。

べつだん難しいネタではなく、賢い人なら冒頭5-10分くらいで、ああ、こういう映画なのねとわかると思います。
私は10-15分くらいで、あ…そういう映画かときづきました。
20分たってもこの映画のつくりに気づかない人は、多分なんでこうなったのかよくわからないけどつらそう、苦しそう、最後は感動したとかになると思います。
そんな人は、アンソニーホプキンスさすがの名演技に泣けました、とかなると思う。いやいや、最後はドン引きで精神崩壊するからね?悲しいとかじゃなくて、深い同情よ…!
アンソニーが可哀想でなくんじゃなくて、自分だったらどうしようで泣けてくるわというか、発狂するだろうなぁと引きぎみになりますね、最後は。

別に難しい仕掛けでも深いことでもないんですが、あ、この映画はこういう作りなんだなと気づくと、

自分だったらどうしよう
自分もいつかこうなる

と錯乱した気持ちになると思います。
そういう意味で、アンソニーホプキンスの起用だと思いますよ。今度は認識存在のホラー要素で視聴者にトラウマを植え付けるには、彼の起用は間違いなかったと思います苦笑

もちろん、劇中のアンソニーは一生懸命生きてるし、視聴者やまわりに恐怖を植え付けてるなんて事は思ってないし、

そういうのが意図されたような複雑な映画でもありません。

でも、私は怖かった。
それがこの映画の全てかなと思います。






以下、大した事はないネタバレ







最悪、このネタバレを踏んでもたのしめます。
なぜなら、この映画の核心的なネタバレに、冒頭で気づく人はすぐに気づくからです。というか、気づかないことにはこの映画の本質に触れられない。


そう、この映画は、我々視聴者の《認知症の疑似体験》
これに尽きます。

《すべて、認知症のアンソニー視点の映画です》

ああ、アルツハイマーの人には世界はこんなふうに見えているのか…!だからそういう言動になるのか。という風に疑似体験できるよう、うまく編集されています。

わざと隠したのに、隠したこと自体を忘れていたり。
↑描写が隠した事そのことがそのまま記憶がすっぽり抜けてて、我々にも抜けたままノー描写で進行するから、娘さんの言動がかなり奇妙なのです。
主人公のアンソニーはわりとありのまま発言するけど、アンソニーと同じ記憶と認識しか持ち合わせていない我々も、アンソニーと同じ立場として、まわりに

何言ってるの?

って思っちゃう。
アンソニーとともに混乱するし、状況を理解しようと考えるタイプの人はいろいろこの映画の設定やアンソニーをとりまく真実を追求しようとする。

しかし、アンソニーがわかる情報しか与えられてないから
考えようとすればするほどアンソニーと同じ状況におちいるのです。その時のわれわれの表情や、えっと、あの人があんな風に言ってるけどつまり…あれ?それこないだ違うって言ってたじゃん  とか思い始めて混乱する。
↑すでに我々も認知症状態です。

これをみて感じたことは、ボケてしまい認知症を患ってしまっても、認知できてない事は認知に問題があるわけで←人の顔や幻視、時間軸の入れ替えや妄想の具現化、希望的観測の具現化や被害妄想、記憶の欠落や時間空間の把握困難、記憶障害。

「自身のこれに戸惑う自分は普通のいつもの自分」なんです。
わかりますか。
彼らはそこは正気なんだよ。
自分がわからなくなるまで悪化した時、それは単に自分が欠落するわけじゃないの。

自分の記憶がないんじゃなくて、自分の中の認識が、
自分の常識から逸脱してる狂ってる世界をみすぎて、自分という存在が哲学的についにわかんなくなってしまった状態であって

ちゃんと自らの状態が、狂ってると認識している「自我」はきっとあるんです。
わかるかな…

根源たる普遍的な自我があり、正しいからこそ
おかしいという事実に狼狽える
そして最後はパニックをおこしてしまう

まさに、それを体感させられた映画でした。
感動しますか?
しません。悲しくなるけどそういうのとはちょっと違います。

つらくてつらくて、本質的な孤独にどうにかなってしまいそうな、そんな息苦しくもしかしたら私のような健常者でもなにかの発作をともないそうな映画でした。


心の弱い人にはあまりおすすめしません。
あまり物語を読みとく事が苦手な人は、逆に見る意味がないかなーとも思います。

疑似体験というメッセージ性がこめられた映画なので、
そこに真実はありません。
本当はあのシーンはだれだったのか。
それは主人公がわかってないので、我々にわかる答えはありません。


ただ、冒頭から出てきた男性女性は、介護施設の介護士と先生だったので、介護施設の半年の間の出来事の時間軸が、アンソニーの中でぐちゃぐちゃになっていたのでしょう。

また、娘の家、自分の家、介護施設の中でも必死に自分の家と認識しようとするから、家具の置き方が自分の家に寄り添っている娘の家だったり、
なにかあると娘の家のみになったり、実は介護施設の椅子が積まれていたり。

そこは本当は介護施設だけど、アンソニーの夢の中ではまだ自分の家なんだぞ!がギリギリ残されていたりして、現実と夢が混濁していたり。

そういう美術的な見せ方もかなり見事だったと思います。
映画ならではの素晴らしさですね。